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No.4 青木孝憲 株式会社光岡自動車

オロチ降臨 青木孝憲 株式会社光岡自動車

フェラーリやランボールギーニの隣にあっても存在感を放つそんな和製スーパーカーが2006年秋にデビューした。名はオロチ。どんな過程を経てオロチは誕生したのか。デザイナーを訪ねた。

PROFILE

青木孝憲 (あおき たかのり)
1975年、栃木県生まれ。カーデザインの専門学校卒業時、就職が上手くいかず就職浪人。当時、カーデザイナーを募集してなかった光岡自動車に「夢を諦められない」という情熱をぶつけ入社。東京モーターショーに出展するスーパーカーデザインの社内コンペで彼のオロチ案が採用され、商品化、予約が殺到した。2007年、生産分は既に予約済となっている。

居場所がなかった子ども時代すがれるのは絵と車だけだった。

——オロチのような、斬新なカーデザインを生み出す方が、どのような子ども時代をおくり感性を育んできたのか、とても気になります。
青木 子どもの世界は残酷。勉強できるか、スポーツできるか、どちらかでないと居場所がない。僕は、両方ダメだったので、学校に居場所がなく、女の子にモテず…ようするに落ちこぼれだったんです。通知表は図工だけ5でそれ以外は1か2。通知表を見て母親はいつも泣いていました。親父は、「オレのせがれだからしょうがない!」と慰めてくれましたが。
——1と2ばかりの通知表で、図工だけは5。絵を描くことが相当好きだったようですね。
青木 小さい頃から、絵を描くことでしか自分を表現できなかったんですよ。もう一つ好きだったのが車。絵と車、それしかすがるものがなく…高校時代も屈折した劣等感の塊でした。
——そんな青木さんが今の道へ進んだのは必然ですね。
青木 でも、美大、芸大に入れる成績ではなかったので、カーデザインを学べる2年制の専門学校に入学するために宇都宮から上京。そこで、好きなことを学ぶ喜びを初めて知りました。
2年生になり、大手自動車メーカーのカーデザイナーに憧れ就職活動を始めたのですが、試験を何回受けても、採用されるのは、美大、芸大の人たちばかり。それに、僕が就職活動していた時期は、すでに就職氷河期で、採用なしという企業も結構ありましたから、結果はことごとくダメで…それでも夢を諦めきれず、親に泣きついて、就職浪人してもう1年専門学校に通わせてもらいました。
——その時期に、光岡自動車との出会いがあったのですね。
青木 その頃、住んでいた早稲田の築70年のアパートとも呼べないようなボロ家でごろんと横になり、「就職はやっぱりムリなのかな」と思いつつ車の雑誌を読んでいたんですよ。その雑誌の裏表紙に載っていたのが光岡自動車の広告でした。
——その広告を見て、運命を感じてしまった、と。
青木 そういうものは全くなく、 「光岡自動車、聞いたことねえなぁ。本社も富山って書いてあるし…富山ってどこだっけ?」という感じでした。
実は、その広告で紹介されていたゼロワンという車種は、弊社が自動車メーカーとして初めて発売した車でした。それだけに、当時は知名度が全くなかった。その広告には、求人情報は一切記載されていませんでしたが、とりあえず、その場でお客様専用フリーダイヤルに電話をしてみました。しかし、「デザイナーの求人はしていません」と断られてしまった。それでも、「作品だけでも見てください!」とくい下がり、「それなら送るだけでも送ってみれば」という返事をいただきました。
それから、作品を送ってほどなくして面接の通知が来ました。面接官は、今、弊社の会長をしている光岡自動車の創業者・光岡進さん。「大手自動車メーカーを受けましたがダメでした。でも夢を諦めることができません」「僕は勉強もできません」とありのままを泣きつくように話したところ、採用していただき…光岡自動車に拾われました。

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