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No.20 宮本亜門 演出家

宮本亜門 Broadwayは芝居のショーウインドー

インタビューをする。そして原稿を書く。ここまでカットするところがない、ありのままの言葉を全て掲載したいと思ったことはない。それほど宮本亜門の一言一言は濃密なものだった。なぜか? 彼はインタビューに答えているのではなかった。目の前にいる一人の人間の疑問に純粋に答える裸の言葉を放つ男だった。

PROFILE

宮本亜門(みやもと・あもん)
1958年、東京都生まれ。
出演者・振付師を経て2年間ロンドン、ニューヨークに留学。帰国後の1987年、オリジナルミュージカルで演出家としてデビュー。翌88年に同作で文化庁芸術祭賞を授賞。2004年、ニューヨーク・オンブロードウェイにて「太平洋序曲」を東洋人初の演出家として手がける。翌05年同作がトニー賞4部門でノミネートされる。

30代の頃、海外といえば旅行ばかりこれで一生終わりかというイラだち

宮本亜門——亜門さんというと、舞台演出家として国内では絶対的地位があるはずなのに、そこには安住せず、海外に挑戦している方というイメージがあります。東洋人で初めてNYブロードウェイで舞台演出をされ、また今年の夏もサンタフェでの公演を手がけられるそうですが、いつ頃から海外を意識されていたのでしょう。
亜門「20代の頃、いつか海外へと思ってて、30代は海外といえば旅行ばかりで全然仕事ができなくて…一生これで終わるのかっていうイラだちがあったんですよ。そのうち自分を責めはじめちゃってね、すごく悩んで演出家として5年くらい停滞してしまった。それで、『これじゃダメだ、作品に集中しよう』と思ったら、奇跡的に向こうから声がかかったんです」
——舞台は言葉が重要な分、スポーツよりも海外進出のハードルがずっと高いと思います。それなのに、なぜ宮本亜門は海を超えることができたのですか。
亜門「思い込み(笑)。最初からへんに計画だけ練って行こうとすると、余計なことを考えちゃうんですよ。やっぱり行けないんじゃないかとか、現実問題厳しいんじゃないかとか。中途半端な知ったかぶりになっちゃう可能性がある。そうすると、どれほどこの作品を自分が愛しているか、という一番大切なところが抜けちゃうんですね。海外に行くことが目的じゃなく、そこで何をしたいのか、どれくらい世界中の人に見せたいのか、この部分を突き詰めれば、いつの間にか国境とか海は超えちゃう。常に作品に向かう気持ちが大切ですね」
——実際にブロードウェイで仕事をされて感じたことはどのようなことですか。
亜門「もちろん演劇人の層は厚いです。ただ、その中には良い人もいるし、あれって思う人もたくさんいるし(笑)。つまり、NYだから世界一ってことはないんですね。

ブロードウェイは芝居のショーウインドー。世界一ではない

NYの芝居のスタイルが一番か、本物かといったら、チベットの山奥ではすごい舞踊劇をしているし、それはNYでは作れないものでしょ。そういう意味では、文化の数だけ世界一があると思うんです。ブロードウェイは、いわば芝居のショーウインドー。いろんな場所から演劇人が集まってきて、お互いに見せあって、競争社会としてはおもしろい場。人の演劇を見て、僕自身もっと勉強してやるぞと思いますしね。刺激がある分、安らぎはないですけど(笑)」
——亜門さんとここまでお話してきてですね、正直、あ、他のメディアで見たままのいつも笑顔の宮本亜門さんだ、って感じたんです。なんか演出家の方って恐いってイメージがあるんですけど、仕事になると豹変してしまうこともあるんでしょうか…。
亜門「一緒に仕事をした演出助手の人も、近所の方に『ねぇねぇ、亜門さんTVでは笑顔だけど、本当はどんな人?』って聞かれたって言ってましたね。あのニコニコの裏には絶対何かあるんでしょうって(笑)。演出の時に物を投げて激怒とかないなぁ。役者やスタッフと対等に話しをするというのが僕の演出スタイル。だから、自分が分からないこともオープンするし、お互いにどう? どう? っていう確認を積み重ねていきたいということなんですね。だから、みんなの前で恥ずかしいことを言ったりとか、自分の失敗を大きな声で謝ることもありますよ。一緒にやろうよと叫ぶこともあるしね。いろんな表情が出ているんだろうな。意図しないところで。結果的に良い人間関係になるし、とっても楽しいですよ」
——そんな感じで演出をされていて、役者と意見が真正面から衝突した時はどういうコミュニケーションになりますか。ちょっと意地の悪い質問ですが(笑)。

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